ヒツジとオオカミの天秤
※「麻薬紛いの栄養剤」後日談
約束通り、サスケは急ぎの仕事を出来るだけ早く片付けていつもより随分早く席を立った。疲れた表情でパソコンと向かい合っている同僚を残して退社する事に僅かな罪悪感を覚えつつもお疲れ様、と声を掛けてコートを羽織る。昼間社内に居る分にはあまり意識しなかったが、暗くなってから外へ出るとだいぶ冷え込んでるのが解った。疲労と寒さに息を吐き出すと、白く染まってすぐに霧散する。
ナルトのアパートには大学に通い始めた頃から何度も訪れており、歯ブラシや着替えなど泊まるのに最低限必要なものは全て揃っていた。ナルトによっていつのまにか揃いのマグカップや箸まで用意されている始末で何も準備する必要など無いのだが、夕飯まで用意してくれると言われると手ぶらで向かうのは何だか気が引ける。途中立ち寄ったコンビニで申し訳程度に缶ビールと軽いつまみを購入し、ビニール袋を提げてサスケは目的地へ足を向けた。
会社からナルトのアパートは近い。徒歩で苦にならない距離だ。高校生の時に良く寝坊して教室に駆け込んでいたナルトにはぴったりだとサスケは笑ったが、先日同僚から一度も遅れて来た事は無いと聞かされて驚いた事を思い出す。
サスケとて勿論四年間モラトリアムに甘んじていた訳では無いが、サスケが大学で四年間を過ごすうちに、ナルトはすっかり社会人として成長したようだった。休日を利用してサスケのアパートを訪れていたナルトの携帯に仕事先から電話がかかってきて、その受け答えがまさに大人のそれで、密かに置いて行かれたような寂しさを感じていた事は記憶に新しい。学生の身のサスケに気を遣って、テスト期間中はただ身の回りの世話をしにアパートを訪ねて来てくれたりもしていた。頼んだ訳でも教えた訳でも無いのにいつの間にかスケジュールを把握しているナルトを不思議に思って問い質すと、同僚の弟が同じ大学に通っていて、良く話をするのだと何が自慢なのか得意げに言っていた。
とりとめもない思考に身を浸しながら歩いていると、気づけばナルトのアパートは目前だった。昼間の出来事が思い出されて、どうしても僅かな緊張に身が硬くなる。躊躇いはあったものの寒さも相俟って深呼吸を一度した後にインターホンを押せば、その途端中からバタバタと派手な足音がしてすぐに扉が開いた。
「お疲れ様!待ってたってばよ」
屈託の無い全開の笑顔に、冷えと疲れがそれだけで緩和された気がして肩の力が抜ける。照れくさくて無言でコンビニのビニール袋を押しつければ、気ィ遣わなくて良かったのに、と言いながらもナルトは嬉しそうに中を覗き込んで声を上げた。
「うわ、ビールじゃん!サスケ気が利く〜」
弾んだ声と笑顔を惜しみなく向けられると照れが増してサスケは曖昧に言葉を濁す。ナルトがこんな顔をすると、年齢よりもずっと幼く見えてまるで高校生のようだ。実際、買い物に行ってビールを買おうとすると良く身分証明書の提示を求められると以前ナルト自身が愚痴を零していたのを思い出して、サスケは口元に笑みを浮かべる。
「風呂とメシ、どっちからがいい?」
「…風呂」
「りょーかい、じゃあ上がる頃にはメシ用意しとく。着替えとタオルも後で持ってくから、直行でいいぜ」
サスケの鞄とコートを引き受けたナルトに更にスーツの上着とネクタイも手渡して頷いた。まるで子供のように笑って甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる様子を見ていると、つい昼間の事など忘れてしまいそうだ。そもそも、スーツや作業服を着ていてやっと社会人に見える外見のナルトは、社会人に見えたとしても高卒の新人に見える程度で、飲み会の席で上司に煙草の購入を依頼されても役に立たないらしい。
自分の家に帰った時よりも疲れが癒やされるのを自覚しつつ、サスケは勝手知ったるという歩みで浴室へ向かった。シャツや下着は纏めて汚れ物用のカゴに放り込み、早々に浴室に入るとシャワーコックを捻って熱めの湯を頭から浴びる。浴槽に湯が張ってある事に気づいて嬉しくなった。風呂と言えば湯船に浸からねば気が済まないタイプのナルトと違い、自宅に帰れたとしてもサスケはシャワーだけで済ませてしまう事が多く、ゆっくりと湯に浸かるのは随分久しぶりだ。
手早く髪と身体を洗って湯船に身体を沈める。冬だから冷え込んでいるというのに、湯の温度は熱くも無くぬるくも無く丁度良かった。サスケが好む温度とナルトが好む温度は微妙に違う。ナルトは少し熱めの湯に浸かるのが好きだが、サスケは少しぬるめで無ければすぐにのぼせてしまってゆっくり浸かれない。それなのにも関わらず、サスケが訪れる時間帯を見越して温度調節をしてくれたのだろうかと考えると素直に嬉しくなった。
「着替えとタオル、ここ置いとくな。疲れてるならあんまり長風呂すんなよ、のぼせちまうぞ」
コンコン、と浴室の扉がノックされ、磨りガラス越しにナルトの声が届く。おう、だかああ、だか自分でも判断がつきかねるような受け答えしか出来ず照れくささに唇まで湯に沈めた。
サスケが風呂から上がると、部屋の中が食欲を刺激する匂いで満ちていた。そういえば書き置きにも夕食は用意するからと書いてあったが、一体何を作ってくれたのだろうとすっかり食欲が回復したサスケは密かな期待を胸に抱く。
ナルトは料理が上手い。というか、アイロンがけ以外の家事全般をきちんとこなせる。普段は面倒がって部屋を散らかす事が多いものの、掃除だってやらせれば文句のつけどころが無いくらいの仕事をしてみせるところがあった。ナルトの部屋が雑然としているのは、散らかっているだけであって汚れている訳では無い。掃除はちゃんと出来るのに片付けが下手なのだ。
「お、いいタイミングだってばよ。ちょうど準備出来たとこだから、座ってて。ビール飲むよな?」
「…ああ」
肩に掛けたタオルで髪を拭きながら小さめのテーブルにつく。夕食のメニューはどうやら丼もののようだった。それにしてはやけに彩りが華やかで、サスケは自分用と思しきやや小ぶりのどんぶりに盛りつけられた具材が気になって覗き込む。
「うずまきナルト特製、豚肉とトマトのスタミナ丼だってばよ。これなら体力つくし、サスケの好きなトマト入ってるからさっぱりしてて食いやすいんじゃねえかと思って。あ、一応ごはんは少なめにしてあるからさ、足りなかったらおかわりあるぜ」
サスケが興味を示した事が嬉しいらしく、先程サスケが持ってきた缶ビールを互いの前に置きながらナルトが弾んだ声でまくしたてた。成る程、彩りが綺麗だと思ったのはトマトとレタスが入っているからだったのかと納得しながら相槌を打つ。缶ビールのプルタブを開ける間にテーブルの上に視線を巡らせると、スライスされたトマトも用意されていた。
「ああ、そっちはトマトステーキ?っつうのかな。ネットで検索したらトマト料理色々出てきてさ。サスケ好きそうだったしビールにも合いそうだったから作ってみたってばよ。どっちも初めてだから味の保障出来ねえけど」
「…へえ…」
照れくさそうに呟かれる言葉に素直に感心する。ネットでレシピを検索して、必要な材料をスーパーまでわざわざ買いに行き、作った事もないような料理を作るなんてサスケには出来そうも無い。サスケも全く料理が出来ないという訳では無い為やってみれば出来るのかもしれないが、あまり新しいものに挑戦しようという気は起きず、たまに作る時は母親が昔から良く作っていた和食になりがちだった。それでもナルトが美味いと喜んでくれるので、尚更無難なものに落ち着きがちになる。
「じゃあ、食おうぜ。いただきます」
「…いただきます」
缶ビールを控え目にカチンと合わせて、ささやかな乾杯をしてからまずはトマトステーキとやらに手をつけた。トマトだけでは無く、細切りのピーマンが添えられている為これも見た目が綺麗で食欲をそそる。厚く切られたスライストマトをかじるとブラックペッパーの利いた味付けとオリーブオイルの風味が広がって、ビールだけでは無くワインなど何でも合いそうなくらいに美味しかった。
「…美味い」
「マジ!?良かった、じゃあこっちも食ってみて!」
ナルトの言うシンプルな調理法だとは思えない味に、サスケは思わず感嘆の声を漏らした。酒のつまみというより、コース料理のオードブルといっても差し支えない出来に改めて感心する。既にどんぶりの豚肉を頬張っているナルトに勧められるままに丼ものに箸をつけると、口に入れる前にふわりと香る香ばしい匂いにますます食欲を刺激された。
「……、…こっちも美味いな」
「ホント?良かったってばよ〜」
トマトと豚肉、レタス、しめじと具材の種類こそ普通だったが、頬張ると豚肉に沁み込んだ醤油とバターの少し濃いめの味付けが疲れた身体に元気を与えてくれるようだった。本来あまり濃い味のものは好まないサスケだったが、どんぶりものという事もあり丁度良い濃さに食が進む。それぞれの具材の食感の違いもあって食べ応えも十分に感じられた。お世辞抜きに食堂で金を払ってでも食べたいレベルだと思えて、驚きを隠せずサスケは素直に褒め言葉を口にする。
「……文句のつけようが無いどころか、美味いとしか言いようがねえ…。…お前、本当に料理上手いな、ナルト」
手放しで褒めると、ナルトは照れくさそうに頭を掻いた。ナルトの腕ならばある日突然脱サラして店を開くと言われてもサスケは驚かない。人柄も手伝ってきっと繁盛するだろうとすら思う。料理の褒め言葉の語彙が無いのが悔やまれるくらいの味に、サスケは無言で箸を動かした。
昼間の食欲不振が嘘のように食が進み、おかわりこそしなかったものの缶ビールを飲み終える頃にはサスケのどんぶりの中身は綺麗になくなっていた。ナルトがあまりトマトが得意では無い事もあり、トマトステーキは八割方サスケの胃におさまったと言ってもいい。そんな様子をナルトは満足そうに眺め、ごちそうさまと両手を合わせるとすぐに立ち上がった。
「俺が片付けるから、サスケは座ってて」
「…いや、…飯作って貰っといてそれは流石に」
「いーからいーから!俺が強引に誘ったんだから、こんくらいさせてくれってばよ」
空いた食器を重ね始めたナルトを慌てて制止しつつ腰を上げかけるも、ぐいぐいと肩を押されて再び腰を下ろす羽目になる。申し訳無さに困惑の表情を浮かべれば、上機嫌な笑顔を浮かべたナルトはテレビのリモコンをサスケに押し付けて手早くテーブルの上のものを流しに運んでしまった。風呂と着替え、食事まで用意して貰って片付けも任せるというのは気が引けたものの、ナルトはこうと決め込んだら譲らない節がある。やたら楽しげでもあったため、サスケは恋人の気遣いに甘える事にしてリモコンのスイッチを押した。
普段あまりテレビを見ないサスケは、チャンネルを変え取り敢えずスポーツニュースに画面を落ち着ける。特別に興味がある訳では無かったが、バラエティやドラマなどはもっと見る気がしなかった。海外で活躍するスポーツ選手の特集を聞き流しながら、台所に立つナルトの後ろ姿を盗み見て時間を潰す。
二人分の食器を洗うのにかかる時間などたかが知れていて、程無くして水道の音が止んだ。すっかり気を抜いてぼんやりしていたサスケは、間近で声を掛けられてて小さく肩を揺らす。気がつけば傍に来たナルトが顔を覗き込んでいた。
「…眠い?ホントに疲れてんだなぁ。ほら、約束通りマッサージしてやるから横になれってばよ」
うとうとしていたつもりは無いが、反応の鈍さからそう受け取られても仕方ないだろうと、特に反論はせず頷くとベッドに上がって俯せになる。両脚に跨るようにナルトが圧し掛かるとそれだけで僅かに緊張してしまい、サスケは顔を隠すようにシーツに突っ伏した。
痛かったら言えよな、と呟いてナルトはまず肩甲骨の辺りを指先で指圧し始める。背骨に沿うようにその両脇を刺激されて、あまりの気持ち良さに溜め息が漏れた。ナルトは変なところで器用というか、家事だけで無くマッサージも上手い。サスケが大学のテスト期間前でずっと勉強していた時も、同じ姿勢だと肩や背中が凝るからと良くやって貰ったが、素人のマッサージがこんなに効くものなのかとサスケは衝撃を覚えた。何をどこでどう習って来たのか知らないが、とにかく上手い。どこで覚えたのかと僅かな嫉妬心を隠して問い質せば、中学高校の頃に所属していた運動部で身につけたとあっさり答えが返ってきた。なんでも、顧問の娘がそういう類の勉強をしていたらしく、プロ見習いのような感じで時々ストレッチやマッサージの指導をしに来てくれていたとの事だった。へえ、と面白くなさそうに相槌を打ったサスケにナルトは笑って、お前の方がキレイだってばよ、と照れもせずに言ってのけたのを覚えている。ナルトのこういうところが、サスケにちいさな不安や嫉妬を抱かせるなんて本人は全く気づいていない。
「……っ…んん」
「あ、悪ィ、強かった?」
「…いや、…ちょうど、…いい」
「そ?良かった」
背中、肩、腰と満遍なくマッサージされて、あまりの心地よさに吐息が漏れた。適度な力で指圧されて、凝り固まった筋肉が解れていくのがわかる気がする。
「…ぁ…、…ナルト、そこ、」
「ん?ここ?」
「…ぅ…っあ」
始めのうちの緊張感はどこへやら、ナルトの手腕にすっかり参ってしまったサスケは一際効く箇所を押されると堪えきれず鼻にかかった声を漏らしてもっとと強請った。そんな様子をナルトはどう思ったのか、小さく笑ったような雰囲気を感じたが目の前の心地良さを堪能する事に夢中になっているサスケには気にかける余裕など無い。凝ってんなあ、と呟くナルトと二、三会話にならない言葉を交わしたような気もするが、サスケは知らず知らずのうちにいつの間にか意識を手放していた。
感じ入った吐息や言葉にならない声の代わりに寝息が聞こえてくると、ナルトは小さく息を吐いて指圧の手を止めた。
「…お疲れ様」
まだ少し湿り気を帯びている黒髪を撫でて、恋人の身体を抱き上げる。んん、と鼻にかかった声が漏れて起こしてしまったかと内心慌てるも、サスケは僅かに身動いだだけでむずがるような声はすぐに再び寝息に取って代わった。
俯せの体勢では寝苦しいだろうと仰向けにして、きちんと肩まで毛布を掛けてやる。久しぶりに他人の目を気にせず眠れるのだからゆっくり身体を伸ばして貰おうと、自分は床で寝るつもりでサスケの身体はベッドの真ん中に落ち着けた。
予備の毛布を引っ張り出してひとまずベッドの隅に置き、洗濯機の様子を見に向かう。既に脱水まで終わっていて、恋人が風呂に入っている間に回しておいて正解だったなと一人呟きながら丁寧に皺を伸ばして部屋干しにする事にした。シャツと下着だけならば明日には乾いているだろう。もし微妙な乾き具合であればアイロンをあてればいい。
元々、ナルトは今夜サスケをどうこうするつもりなど無かった。昼間は久しぶりに会えた嬉しさで暴走してしまったが、あの短時間の遣り取りでも恋人に疲労が溜まっているのは十分に見て取れた。それだけにあんな暴挙に出てしまった事を反省して、サスケが今夜訪れてくれたら彼の為に尽くそうと決めていたのだ。
ベッドの側に戻ると、サスケの身体に掛けた毛布が彼の呼吸に合わせて小さく上下していて、幸福な気持ちに満たされる。自覚があるのか無いのか解らないが自分と一緒に居る時のサスケはひどく無防備で、意地っ張りでプライドの高い彼にそれだけ気を許されているのだと思うとそれだけで気分が良かった。
予備の毛布にくるまり、床に腰を下ろしてベッドを背凭れにする。眠る前にもう一度だけ恋人の顔を見ようと身体を捻れば、薄く開いた唇が艶っぽくて思わず唾を飲み込んだ。先程ナルトが作った夕食を美味しそうに食べていたこの口が、昼間は下肢を咥えていたのだと考えるとそれだけで興奮する。邪な気持ちが湧き上がりそうになる自分を律して、ナルトはサスケの頬に軽く唇を触れさせるだけに留めておいた。
「…ん、……」
幼さを覗かせる寝顔と普段より随分可愛らしい声が愛しくて頬を撫でれば、形の良い唇が動いてナルト、と言葉を紡いだ。次いで毛布の中におさめられていたサスケの手が何かを探すように動いてナルトの服の袖を掴む。その感触に安堵したのか、すぐにサスケは再び規則正しい寝息をたて始めた。
「……サスケ…」
無意識下で求められていると思うと、愛しさと庇護欲が同時に湧いてきつく抱き締めたい衝動に駆られる。けれど起こしてしまうのは忍びない。葛藤の末、ベッドを背凭れにして眠るのでは無く、ベッドに突っ伏すような格好で眠る事にした。手を出せないのは辛いものがあるがこの体勢ならばサスケの寝顔も見られるしと自分を強引に納得させて、袖を掴んでいた恋人の手を優しく握る。手を繋いで眠るなんてまるで子供みたいだ。肌のぬくもりが心地良くて、触れているだけで安心して幸せな気持ちに包まれる。ナルトはひどく満たされた気持ちで目を閉じた。
目を覚ました時、一瞬自分がどこにいるのか解らず慌てて身体を起こした。ぼやけた視界がはっきりしてくると、自分の部屋では無いものの見慣れた室内が瞳に映る。昨夜ナルトのアパートを訪れて泊まったのだと理解するまでに数秒を要した。それ程までに眠りが深かったという事だろうか。
「…っ…、…ふぁ…」
安堵したサスケは大きく伸びをして欠伸を噛み殺した。久しぶりに身体を伸ばしてゆっくりと眠っただけあって、気持ちいいくらいに疲れが取れているのが解る。ここ最近おざなりになりがちだった食事もちゃんとしたものを食べさせて貰ったし、湯船に浸かった効果も大きいだろう。おまけにマッサージまでして貰ったおかげか肩や背中も痛くない。…と、ここまで考えてサスケの思考は停止した。
風呂と食事の面倒を見て貰い、疲れているだろうからとマッサージまでして貰ったというのに、いつ眠ったか記憶が無い。いや、という事はきっとマッサージして貰っている最中に眠ってしまったのだろう。ほんの少し前まで寝ぼけていた頭が冷水を浴びせられたように一瞬にして覚醒したような気分になった。あれだけ至れり尽くせりして貰っておいて、ナルトに何もさせず眠ってしまった事に罪悪感が募る。
「あ、サスケ起きた?おはよ。朝メシ出来てるから、顔洗って来いよ」
蘇る記憶に鼓動が速まり胸を押さえていると、小さな台所で忙しく動き回っていたナルトがひょこっと顔を覗かせた。思わずびくりと小さく肩が跳ねる。しかしナルトは怒った様子も無く不機嫌にも見えず、むしろ鼻歌交じりで上機嫌に鍋の中身を皿に移していた。
取り敢えず言われた通りにしようと、サスケは複雑な気持ちで洗面台へ向かう。昨日の昼間、ナルトは確かに「もっとちゃんとする」為に家に来いと言っていた。疲れも溜まっていた為無理をするつもりは無かったが、サスケもそのつもりで訪れたのだ。昼間のあれだけの接触では足りないと恋人を欲する気持ちもあった。嘘では無い。
用を済ませて戻ると、丁度ナルトが朝食の用意を終えたところだった。良い匂いに食欲が刺激されて、気まずいながらも小さなテーブルにつく。お茶でいいよな、との言葉に頷くと、中身がホットミルクとお茶のマグカップを運んで来たナルトが腰を下ろして両手を合わせた。
「いただきまーす…あ、コレ、トマトのリゾットだってばよ。朝だからあんまり重いもんじゃねえ方がいいと思って。口に合うかどうかわかんねえけど」
ナルトの言葉に耳を傾けながらサスケもつられて両手を合わせ食前の挨拶を済ませる。少し深さのある皿に盛りつけられた朝食は、鮮やかな赤い色で綺麗だった。ところどころに映える黄色はたまごだろうか、スプーンを手に取って口へ運ぶ。咄嗟に言葉が出ないくらい美味しくて、サスケは一瞬固まった。トマトの爽やかな酸味とたまごの優しい甘さ、それにほんの少し振りかけられている粉チーズがアクセントになってお世辞抜きに美味しい。文句のつけどころが無さ過ぎて、何と言ったら良いのか解らないくらいにサスケ好みの味だった。
「……ど、…どう…?」
何も言わないサスケに焦れたようにナルトに尋ねられ、サスケは漸く我に返る。美味いとしか言いようがなくてそう告げると、ナルトは心底安心したように胸を撫で下ろした。
「良かった、初めて作るもんばっかだったから色々心配だったんだよな」
嬉しそうにはにかんだ笑みを見せ、やっとナルトはリゾットに口をつける。ナルトとて味音痴な訳では無いのだから自分で食べてみれば解るだろうに、昨夜も今朝も何故これ程までに自信がなさそうなのかとサスケは首を傾げた。味見なり何なりすれば、一口食べた瞬間に美味いと思えるくらいの出来なのだ。しかし、リゾットを一口食べてはホットミルクのマグカップを傾けるナルトを何となく眺めていて、サスケは思い当たるひとつの可能性に気づきリゾットを口に運ぶ手が止まった。
きっと、リゾットはナルトの好む味では無いのだ。リゾットだけでは無い、豚肉が入っていた丼ものはともかく、昨日のトマトステーキにしろそうなのだろう。好みでは無いから美味しいのか美味しくないのか解らないのだと気づいて、申し訳無さに胸が痛んだ。久し振りに会う恋人の為に風呂を沸かし、自分は好きでは無いにも関わらず恋人の好物を使った料理を作り、それを一言も恩に着せる事無く一緒に食べるなんて、感心を通り越していっそ健気だ。
どこかいたたまれない気持ちでリゾットを食べ進めると、固形物が入っている事に気づく。咀嚼してみると魚肉ソーセージのようだった。食べ易さだけでは無く、朝食だからこそ腹もちや食べ応えも考慮したものなのだろうと思うと、あまりの気遣いに溜め息が漏れた。
「…こんな手の込んだもの、…昨日も、…今日も」
「はは、ありがとな。でもそうでもねえんだってばよ。ソレだって基本的にはトマトジュースで煮込んだ雑炊って感じだからさ。でも別にどっか具合悪い訳じゃねえし薄味過ぎてもおいしくねえと思って、チーズ振りかけて、味噌を隠し味に入れてあるんだぜ」
「……味噌」
「そう。牛乳もたまごも入ってっから言われねえとわかんねえだろ?」
サスケの言葉が余程嬉しかったのか、ナルトは得意げにまくしたてる。こいつ将来本気で店でも持てばいいのにと、サスケは喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。客に愛想を振り撒くナルトが容易に想像出来て、魅力的なその姿を店に訪れる客全てに見せるのだと思うと嫉妬してしまいそうになった。現実でも無いのに不必要な心配をする自分が可笑しくなる。
用意された料理を褒めるように自然に、昨夜勝手に寝てしまった事を謝ろうと思うのだがどうにも言葉が出て来なかった。勿論彼が下心の為だけにここまでしてくれたのでは無い事など解っている。けれど、多少一方的でも元々の約束を破ってしまった事に変わりは無く、心苦しさに良心が苛まれた。
「あ、そうだ。俺今日現場に直行だからさ、まだしばらく出ねえんだけど、サスケ先に行くよな?」
リゾットを咀嚼しながらナルトが不意に声を上げる。やはりホットミルクで流し込むようにそれを飲み込み、床にぞんざいに置いてあったらしい書類を捲って確認すると言葉を続けた。
ほぼ設計だけを仕事としているサスケと違い、ナルトの業務内容は多岐に亘る。スーツを着て取引先に出掛ける事もあれば、作業服にヘルメットを被って現場へ赴く事もあった。かと思えば何の仕事なのかラフな格好に会社のロゴが入った上着を羽織っているだけの時もある。
ナルトがどんな業務をこなしているのか、気にはなったがまだ詳しく訊いた事は無かった。学生の時から気にかかっていたものの社会に出ていないうちに訊ねても理解し難いだろうと控えていたのだ。同じ会社に入る事が決まりこれで聞かずとも済むと思ったのだが、それは間違いだった。所属している課も違い、会社でナルトと話す機会も滅多に無くて、恋人の仕事内容はサスケにとって未だ謎のままになってしまっている。
問いかけに頷くと、食事を終えたナルトはホットミルクを飲みほすなり立ち上がった。残り僅かだったリゾットを頬張りサスケも続こうとするが、いいから、と制されて大人しく待つ他無い。すぐに戻ってきた恋人に紙袋を手渡され、サスケの頭上に疑問符が浮かんだ。中をあらためると、サスケが昨日着て来たと思しきシャツと下着がおさめられている。
「昨日、お前が風呂入ってる間に洗っといた。一晩で何とか乾いて良かったってばよ、まあちょっと微妙だったとこにはアイロンあてたんだけど」
紡がれる言葉に、最早何と言えば良いのか解らずサスケは絶句した。洗濯物くらい、後で洗ってナルトの家で保管したって良かった筈だ。しかも、生乾きの部分にはアイロンをあてて乾かしただって?いつも、最低でもシャツの襟と袖口だけはアイロンをあてろ、と口を酸っぱくして言っているサスケにどうせ上手く出来ないし面倒だから嫌だ、と返すのが口癖のようになっているナルトが。
「…わざわざ、…今日じゃなくても」
「でも、サスケ自分ちに帰りたがってたからさ。今日金曜だろ?帰るなら持ってきたいかと思って」
最近働き詰めで曜日の感覚を失っていたサスケは、ナルトの言葉を受けてカレンダーに視線を滑らせた。日付を確認すると確かに金曜だ。もう週末なのかと、一週間が経つ早さに驚いてしまう。それと同時にカレンダーの横の掛け時計が目に入り、サスケは慌てて腰を上げた。いくらナルトのアパートが会社に近いと言えど、そろそろ出なくては間に合わなくなる。それを察したらしいナルトが、サスケが気を回すよりも先に後片付けは俺がやるから大丈夫、と笑ってサスケの背中を押した。
多少の、どころか多大なる申し訳無さを抱きつつネクタイを締め、上着とコートに袖を通して玄関へ向かう。一度台所の方へ引っ込んだナルトが慌てて追いかけて来た気配を感じて振り返れば、鮮やかなオレンジ色の布に包まれたものを押しつけられて面食らった。
「弁当。昨日の残りもん詰めただけだけど。…サスケ、美味いって言ってくれたから」
渡された瞬間まさかとは思ったが、それが的中してサスケはすぐに言葉を返せなかった。目の前の恋人が、本当に昨日の昼間の傍若無人な男と同一人物なのかと疑いたくなる。これではまるで、良く出来た妻だ。
「あ、弁当箱、持ってっちまって構わねえからな。俺普段弁当とか作らねえし」
サスケが何も言わないのをどう受け取ったのか、ナルトが慌てて捲くし立てる。何か対価を得ようとしたのでは無いという気持ちを伝えたかったらしい慌てぶりが微笑ましくて、サスケは小さく笑いを漏らした。ちゃんと洗って返しに来る、と呟くと、ナルトは何故か照れたように笑っていつでもいいからと付け足して頷く。
「…じゃあ、行って来る。……その、色々、…ありがとう。…飯、美味かった」
「おう。またサスケに喜んで貰えるような飯作るから任せろってばよ」
結局昨日の昼間の約束の事は言い出せず、サスケは感謝の気持ちだけを丁寧に紡いで玄関の扉のノブに手を掛けた。軽く触れ合うだけのキスをしてからドアを開く。いってきます、と再度告げてドアを閉めようとした時、不意にナルトが口を開いた。
「…あ、…あのさ、」
「……、…はぁ…」
サスケを送り出し、ひとり残されたナルトは大きく息を吐いて玄関の扉に背を預けた。
「良くやったってばよ、俺…」
無防備な恋人に手を出したい気持ちを堪え、これ以上無いというくらいに尽くした。サスケが訪れてから送り出すまで、してやれる事は全てやったと言っていい。その行為自体は大した事は無かったが、恋人を目の前にして下心の片鱗も覗かせないような態度を取り続けた疲労がどっと押し寄せた気がしてナルトはずるずるとその場に座り込んだ。
サスケが早期入社してからというもの、設計二課にいきなり入った新人の実力と容姿端麗さが瞬く間に社内で噂になった。愛想があまり良くないところすらもクールでかっこいい、と評されてしまうのだから全くイケメンという人種は質が悪い。管理職の人間とサスケの所属していたゼミの教授が古い知り合いという事もあって、サスケは上司からも一目置かれているようだった。
彼が大学に在籍していた時もそれはそれで心配したものだったが、サスケは大学に居る四年間を鬼のように勉強に費やした。学費を稼ぐ為といってアルバイトもしていたようだったが、優秀な成績をおさめて入学したサスケの学費は半分しかかからず、その全てを兄であるイタチが支払っていた事は知っている。サスケがアルバイトをしていたのは、ナルトとのデートでナルトにばかり支払いをさせない為だった。
可愛いところあるよなあと、今思い出しても頬が緩む。男女のカップルならともかく自分達は男同士だ。ナルトへの思い遣りと同じくらい、サスケのプライドもあったのだろう。
そんな訳で大学生活を送るサスケには、女の影など微塵もちらつかなかった。話を聞くに告白される事は度々あったようだが、ナルトが思わず彼女達に同情してしまうくらいにはっきりと振ってきたようだ。これはサスケの口からでは無く、サスケと同じ大学に通う弟を持つ同僚から聞いた話だった。
とにかく、学生の時分は人付き合いになど頓着しなかったサスケだが、就職先となるとそうはいかない事くらい彼もきちんと理解していた。社会人になってしまえば人付き合いも仕事のうちであり、取引先の相手には勿論、社内の人間にも気を遣うのは、仕事を円満に済ませる為には当たり前の事だ。会社でのサスケは学生の時と比べて随分雰囲気が柔らかく、だからこそ、サスケが入社してからというものナルトは気が気では無かったのだ。本当ならば四六時中付いて回りたい気持ちを抑えて仕事に勤しみ、どちらかが忙しくて会えない時にはその分メールか電話をするように心がけていた。
しかし、である。サスケはそんなナルトの気持ちを知る由も無く、何を考えているのか二週間も無視を決め込んだ。彼には彼なりの理由があったにしても、あんまりだとナルトが募る不満を持て余していたのも当然と言えるだろう。それが昨日の昼間のような形で爆発してしまった事は勿論悪いと思う気持ちはある。泊まりに来たサスケに手を出さなかったのも反省の気持ちからだった。
けれど、出来る限りの事をして尽くしたのは、近い将来、至れり尽くせりの女がサスケにアプローチしてきた時に、間違ってもサスケがコロッといかないようにという牽制の意味も大きい。家事や料理を一通りこなせるようになっておいて良かったとひとり暮らしを始めてからの自分を褒めてやりたくなった。付け焼刃では絶対に上手くいかなかっただろう。
再び大きな溜め息を吐いて、ナルトは朝から気怠さを訴えてくる身体を叱咤して立ち上がる。緩慢な速度でベッドまで移動し、倒れ込むように突っ伏した。先程までここで眠っていたサスケの匂いが鼻腔をくすぐって、思わず熱い吐息が漏れる。今まで我慢していた反動のように、それだけで身体が熱くなった。
「……生殺しだってばよ…」
掠れた声で呟いて、欲求に逆らわず下肢に手を伸ばす。昨日の昼間の恋人の様子を思い出して、ナルトは前を寛げた。
比較的ゆっくりと会社への道を歩きながら、サスケはどこかふわふわしたような気持ちに包まれていた。昨日の夜から今朝までの出来事が、恵まれ過ぎていてどこかまだ夢心地だった。ゆっくり湯舟に浸かり、ビール片手に美味い食事を摂って、マッサージまでして貰った挙げ句に恋人のベッドを占領して眠るなんて、贅沢を通り越して自己中心的過ぎる振る舞いだ。
きっとナルトは、我慢して手を出さずにいてくれたのだろう。朝だって出勤が遅めなのにも関わらずサスケよりも早く起きて、朝食を用意し、洗濯物を片づけ、弁当まで持たせてくれた。泊まりに行った先でこんなに完璧にもてなされたら、その恋人を嫁にするしかないと普通の男ならば思いそうな事を全てやってのけたのだ。勿論多少の下心もあっただろうが、それはサスケとて同じこと。その下心すらも、愛情に他ならない。
社内に入ったサスケは、どこか浮ついた気持ちですれ違う社員と挨拶を交わした。自分のデスクに着き、弁当の中身を崩さないようそっと置く。ナルトを連想させる明るいオレンジ色のランチクロスに包まれたそれを眺めているだけで幸せな気持ちに胸が満たされた。
不意に先程の玄関での遣り取りを思い出して、サスケは口元を緩める。出掛けのキスを交わした後、玄関の扉を閉める間際にサスケを呼びとめたナルトは、困ったような怒ったような、それでいて不安げにも見える複雑な表情を浮かべて視線をさまよわせていた。
「あ、あのさ、サスケ」
「…何だ?」
「……リ、リゾット。まだ余ってっから。…こ、今夜、…もし食べたくなったら、……その」
心なしか頬を染めて途切れがちに言葉を紡ぐナルトを、一体何を言おうとしてそれ程までに照れているのか不思議に思ったのを覚えている。
「何だ、あれまだ残ってるのか?」
「お、おう。…だからさ、…もしアレだったら、……こ、今夜も、………っ…、…や、やっぱいい!気をつけてな!」
何を思ったのか、煮え切らない物言いをしていたナルトはそこまで言うと玄関の扉を勢い良く閉めて鍵までかけてしまったのだ。その不自然な態度に呆気にとられた。
何なんだ、アイツは。
椅子に腰を落ち着け、昨日の作業の続きを再開しようとパソコンの電源を入れたサスケは吐息だけで小さく笑いを零す。自分勝手に人を振り回したかと思えばまるで新妻のように尽くして見せたり、会社のトイレで強引に口淫を強要したかと思えば、今夜も来いよの一言を照れまくって言えないときた。ギャップが凄いというか、意外性があり過ぎるというか、とにかく何年一緒に居てもナルトの言動は予想がつかない。
あのトマトリゾットがあるのならそれを今夜の夕食にするのも悪くない。それに今日は金曜日だ。ナルトのお陰でやけにぐっすり眠れたお陰で頭も冴えている。明日は休みなのだし、仕事を早く終わらせてナルトのアパートへ赴き、今日こそ気の済むまで付き合ってやってもいいと思えた。本当ならば週末くらい離れた自宅に戻ろうかと考えていたのだが、今週くらいはいいだろう。仕事が落ち着けば平日に帰ってもいいし、最悪来週末にナルトを連れて行ってもいい。
今日は手土産に何を持って行こうかとサスケは設計図を眺めながら思考を巡らせる。二日連続でビールというのもなんだし、リゾットには合わない。コンビニ限定のカップ麺でも喜ぶだろうかと心の中で呟きながら専用のソフトを起動し、サスケは幸福に満たされた気持ちで必要な線や数字を描き足していく。
ナルトと過ごす日々は刺激的で幸せだと自覚せざるを得ない。振り回されるのはいつもの事だが昨日から今朝までは特に様々な意味で翻弄され、驚かされることばかりで飽きる気がしなかった。たまにはナルトの驚き慌てる顔が見たくなって、仕事の合間に策を考える事にする。手始めに、誘い文句もろくに言えなかった恋人のアパートを、空の弁当箱と多めの手土産を持って何も告げずに訪れるというのはどうだろう。出勤が遅めだと言っていたという事は帰宅もそれなりの時間だろうから、合鍵を使って先に部屋へ入り今日はサスケが風呂の準備をしてもいい。一日中現場ならきっと帰宅してすぐに風呂に入るだろう。
機嫌良く考え事をするサスケの指先が軽やかに動く。その唇は恋人で無ければ気がつかない程微かに弧を描いていた。