※火影×補佐。二十六歳。
春。空は青く晴れ渡り、室内に射し込む麗らかな陽光はその気が無くとも眠気を誘う。気持ちがいいからと開けた窓から時折小鳥のさえずる声が耳に届き、その風雅な雰囲気が春らしい陽気に拍車をかけて心までのどかにしてくれる。
それだから、これほどまでに頭がぼんやりして良い考えが浮かばないのは、ひとえにこの春という季節のせいなのだ。決して自分にまつりごとの才能が無いからなどでは無い、と言い聞かせつつ、送られてきた書状を読み終えたナルトは深く溜め息を吐いた。何度読んでも書面の内容が変わる筈も無く、また、悩みを解決に導く名案が思いつく訳でも無い。
弱冠二十六歳で火影に就任したナルトは、最初のうちは何もかもが危なっかしく、一人では片付けられない仕事の方が多かった。しかし数年が経つ頃には、流石に執務にも慣れて落ち着きも出て来る。デスクワークも一通りはこなせるようになったし、行き詰まった時、何を誰に相談すれば良いのか、また、どの部下が何に秀でているのかも大体は把握出来るようになっていた。けれども、数年間の実務を経ても、まだ里長としての責務を完璧に果たせるようになった訳では無い。周りからの助けが無ければ、慣れない仕事にかかるプレッシャーにとっくに潰れていたかもしれなかった。
小さく唸りながら、視線を再び書状の冒頭に戻す。専門の職人に書かせたのであろう、達筆な文字で綴られた書面はどことなく威圧感を放ってナルトの頭を悩ませ続けていた。
就任間近の頃は色々と覚えねばならない事が多く、勉強中に良く居眠りをしては多方面から小言を浴びせられていた事は、今となっては良い思い出のひとつになっている。机に縛り付けられんばかりの勢いで綱手からスパルタ指導を受けている時間には居眠りなどという自殺行為は流石に出来無かったものの、数年前までのナルトの頭は、難しい事を考えるとすぐに眠気に襲われるような構造になっていたのだ。
その言い訳にシュンミンアカツキをおぼえずって言うだろと詳しくもない故事成語を使えば、溜め息を吐いたシカマルに、それはてめえの思ってるような意味じゃねえ、と呆れた表情で呟かれた事はまだ記憶に新しい。気になって後にサクラに意味を訊ねれば、すっかり白衣姿が板についた彼女は、甘栗甘の新メニューを堪能しながらその由来まで丁寧に解説してくれた。
いい、ナルト。春眠暁を覚えずっていうのはね、春だから気持ちよくていつでも眠くなるって意味じゃないのよ。春は穏やかな気候で夜も寝心地がいいから、暁、つまり夜明けになってもなかなか目が覚めなくて早起きが出来無い、ついつい遅くまで眠ってしまうってこと。アンタみたいなのが勘違いして使うから、間違って覚えてる人が多いみたいだけど、風流な言葉を怠けたい口実に使わないでよね。
今の季節限定販売だという、白玉の代わりに桜団子が入っているクリームあんみつをぺろりと平らげたサクラは、右手に握ったままの木製スプーンをまるで教師が持つ指し棒のように軽く振る。その仕草から、最近部下だか弟子が出来たらしい彼女の指導ぶりが目に浮かぶようで、ナルトは笑いを堪える事に必死になった。師匠があの綱手なのだから、きっと、サクラの弟子もまた苦労していることだろう。
尤も、運命共同体と言っても過言では無いくらいに苛烈な時期を共に戦い抜いた彼女はナルトの事など何でもお見通しで、誤魔化そうとした口元の緩みなど一発で見抜かれてしまった。反射的に思わず身構えるも、サクラが手を伸ばした先はナルトでは無く甘栗甘のお品書き。美味しかったけどちょっと甘すぎかなあ、辛いもの欲しくなっちゃった、と呟いた彼女が追加注文した醤油団子と共に、クリームあんみつの代金がナルトの財布から支払われる事になったのは言うまでも無い。
兎にも角にも、周りの助けを借りながら何とか数年間を乗り切って来た未熟な火影は、頭の出来がよろしくなくともその時間を無駄にするような馬鹿という訳でもなかった。努力の甲斐あって、最近になってやっと、フォローしてくれる同期達に迷惑や心配をかける頻度が減って来た事は喜ぶべき成長である。しかし、俺が火影ですと胸を張って言える程自信に満ち溢れている訳でも無い。幼い頃からナルトが夢見て目指して来た火影像と今現在の自分とは、未だかけ離れたままだった。
あーもう、と無意識のうちに声を漏らしながら、先程からナルトの頭を悩ませている一枚の紙切れと睨み合う。当たり前だが、何度熟読しても文面が変わる筈も無い。湧き上がる苛立ちに、忙しさにかまけて切りに行く暇も無い、少し伸び気味金髪をがしがしと乱暴に掻いた。
ナルトの手に握られたその書状は、火の国に隣接する小国から届いたもので、平たく言えば経済的支援を要請するものである。
戦争が終わり情勢が落ち着き始めた頃、五大国の意向で、経済的に苦しい小国に支援するという政策を一度だけ大規模に行った事があった。第四次忍界大戦は五大国同士での争いでは無かったものの、敵がどこの誰であれ、戦争をすれば被害を被る場所や民が出て来る。実際、戦場になった場所の中には五大国とは無関係の小国である事も多かった。
戦争が終わった直後は、いくら五大国と言えど失った兵の弔いや遺された家族への補償と精神的ケアに忙しく、また、それが最優先で進められるべき事項であるとも考えられていた。その為、他国への支援まで気も手も回らなかったのだ。しかし、だからといっていつまでも小国を放っておく訳にもいかない。五大国とて世界を守ろうと団結し戦った事に嘘偽りは無いけれども、戦場となり痛手を被った国を、不運の一言で片づけられる筈が無い事もまた事実だった。
会談の結果、精査を重ね各国や里が受けた被害の詳細を明確にした上で、その程度に合わせた支援を行う事で五影は合意した。その内容も、経済的支援なのか、もしくは人を派遣して直接復興を手伝うのか、支援する対象ごとに明確にする事も同時に決まっている。それから、支援の記録を逐一書面として残すという事も決定事項のひとつだった。それは、支援はあくまで五大国が合同で行うということを各国できちんと認識する為であり、また、支援対象ごとに不当な差が無い事の証明の為でもある。
目に見える形で正式な記録を作る事で、不当にもしくは必要以上に支援を要請してくる国があった場合にその情報を開示し、争いごとの火種となることの無いように支援要請を拒否出来るようにとの発案は、当時火影だったカカシのものだ。五大国のトップが揃う会談なのだから、カカシが発案せずとも結果的に誰かが言い出したのかもしれない。しかし、少なくとも自分では考え付く事は出来無かっただろうと思うだけに、上に立つ者としてのカカシの才にナルトは敬意を払わずにはいられなかった。
ナルトだって努力はしている。懸命に考えてもいる。それを未熟でも許される事の言い訳にする事は絶対に無いけれど、それでも、長として優れた判断が出来無い事の言い訳にもしたくはなかった。
「……はぁ……」
「また書状一枚に時間くってんのか。てめえ一人で判断出来無いものは誰かに回せって言ってんだろ、いい加減時間の無駄だ」
再び深く溜め息を吐く。それは、周りに誰も居ないと思いこんでいたナルトの、形を変えた弱音でもあった。しかし、不意に静かな執務室の空気を震わせた聞き慣れた声に驚き、肩を跳ねさせて反射的に顔を上げる。そこには、朝、共に出勤してきたものの、少し用がある、とふらりと部屋を出て行った補佐役不機嫌そうな顔があった。サスケの気配は、最早慣れ過ぎていて普段はノーマークなのだ。急に話しかけられれば驚きもする。
「……でも、そう言って結局シカマルに回しちまう書類が束になってるじゃねえか。めんどくさい事は全部シカマルに押し付けてるみたいで、……そういうの、なんか、嫌なんだってばよ」
「じゃあてめえがその書類と睨めっこしてれば解決するのか?出来ねえことまで自分でやろうとして、出来る事すら出来なくなったら意味ねえだろ。偉い奴ってのは指示するのが仕事だろうが」
紆余曲折を経て補佐役に就いたうちはサスケというこの男は、態度だけは火影をも上回るのだ。尤も、殊勝でしおらしいサスケなんてナルトも全く望んでいないのだから、その点については何の文句も無い。そんなサスケは、直接拳をぶつけ合ったあの戦いの直後だけで十分で、もう一生分の素直なサスケをあの時に見せて貰った気さえしていた。
それに、随分偉そうな態度で語られる小言もいちいち的を得ている。補佐兼見張り役にこれ以上適している人材はいねえだろ、とは、サスケが任に就くその日まで補佐役を務めていたシカマルの言葉だ。彼は今別の名前がついている役職に落ち着き、参謀としての仕事に専念している。シカマルも元々面倒見の良い男ではあったが、その明晰な頭脳をナルトのスケジュール管理に使うのは少々勿体無いと常日頃指摘を受けてもいた為、これで良かったのかもしれなかった。
「……わかってるってばよ。サスケの言う事もちゃんと理解してるつもりだし、何もかも俺一人でやれるって考えてるほど思いあがってる訳でもねえ。……でもさ、出来ねえ事を出来ねえままにしてたら、いつまでも成長しねえだろ。たまには自分で考えねえと」
ナルトが座っている火影専用の机の隣に設置された簡易デスクの上に積み上げられていた書類をぱらぱらと捲っているサスケに、いつになく真剣な面持ちで告げる。それをどう思ったのか、ナルトの方を一瞥したサスケはそれ以上何も言わずに書類の仕分けを始めた。
厳しい補佐役がどうやらナルトの言い分を認めてくれたらしい事に一先ず安堵しつつ、ナルトは手に持ったままだった書状を一度置いて腕を組むと目を閉じる。昔、仙術修行を行っていた時は、良くこうやって視界を遮断し精神統一に励んだものだ。
書状の差し出し元である、火の国に隣接している小さな国からの経済支援の要請は何もこれが初めてでは無い。五大国が合同で行った経済支援の後、火の国の大名宛てに数度、それが受け入れられないと解ると火の国の隠れ里である木ノ葉宛てに書簡を送ってくるようになった。内容は直接的な経済支援要請、それが難しければ火の国に経済支援を申請する為の口添えを願いたいというものだ。
ナルトとて勿論、困っている人や国を助けたいという気持ちはある。しかし、火の国はともかく、木ノ葉は戦争直前にペインによる攻撃で里に壊滅的ダメージを受けた。その後の戦争は、必要不可欠で切羽詰まった状況だった為、何とか体勢を整えて他国にひけをとらない程の戦力を用意したものの、財政は常に逼迫していたのである。
それでも何とか戦争後の復興を乗り切って、五大国合同という形ではあるが、規模の小さい国への支援にも協力出来るところまでやっと回復したのだ。カカシは財政について弱音を零す事は皆無だったものの、事情通である綱手は、木ノ葉の財政が破綻寸前のギリギリの状況でもっている事を側近にのみ明かしていた。
そういう状況だけに、経済支援を無限に行える状況では無いのだ。それに、いくら苦しいとは言っても、ひとつの国だけに何度も支援を行う訳にもいかない。他の国の目もあるし、何より、支援はそもそも自立を促す為の手助けであって、言われるままに金銭を渡す事が目的では無いからだ。
角が立たないようにそう説明し、五大国間での取り決めもある為要求に応える事は難しいと、穏便な内容で幾度も書状を送り返答しても、暫くすればまた書簡が送られてくる。しかも内容は回を増す毎に威圧的になり、今では、木ノ葉からの支援が無ければ国民が餓死するしか無くなるなどと物騒な言葉が並ぶようになっていた。
その執拗さにうんざりしているのは、何もナルトだけでは無い。国や里、大名宛ての手紙を実際にしたためるシズネも、脅迫紛いの支援要請にはほとほと困り果てている様子だった。
「また例の国か」
「……おう、これで何度目だろ。ちっちぇえとこだし、武力行使に出られそうなくらい戦力ある感じでもねえのに、なんでこんなに強気なんだろうなあ……。外交問題ってすげえデリケートだし、気ィ遣わなきゃいけねえのわかってるけどさ、いい加減にして欲しいってばよ」
名案が浮かばないままにナルトが目を開いたタイミングでサスケに話しかけられ、思わず正直な心情を吐露して頬杖をつく。ナルト同様暫し手元の書類に視線を注ぎながら押し黙っていたサスケは、不意に立ち上がるとナルトの側に勢い良く歩み寄り、強引に手を取った。
「出掛けるぞ」
「…えっ!?…な、なんだってばよ!?おい、ちょっと!」
有無を言わせず引き摺られるように立たされ、そのまま執務室の出口まで引っ張られる。羽織が翻り、裾が掠めた書類が数枚ひらひらと舞って床に落ちて行くのを視界の端で捉えても、手首を掴むサスケの力が強くてどうにも踏み留まる事が出来無かった。否、本気を出せばサスケの手を振り払う事など容易い。しかしそうしなかったのは、問答無用な態度と手を引く力強さに戸惑いつつも、掴まれた手首から伝わるぬくもりが心地良かったからだ。
一体どこへ行こうとしているのか、だとか、やりかけの仕事はいいのか、とか、ナルトの頭の中は疑問符でいっぱいになっていたものの、それ以上に、今までに無い行動に出たサスケが何をするのかという事への興味の方が遥かに強かった。
普段外ではベタベタくっつくなと言うサスケが、手首を掴むという形だったとしても、ナルトの手を引いて屋外を歩いている。例えその表情がとてつもなく不機嫌でも、サスケに手を引かれて彼の思うままついていくという今の状況にナルトの胸は躍った。
サスケが足を止めた場所は、里の中の少し奥まった場所にある川辺だった。決して入り組んだ地形では無いのに、人の目につきにくい印象を受けるからだろうか。木ノ葉で生まれ育ち、子供の頃里中を駆け回って探検した自負のあるナルトも初めて訪れる場所で、こんなところがあったのかと驚きを隠せなかった。
小さな川に架かる橋のたもとに桜の木が立っていて、満開の桜の木から時折薄桃色の花びらが舞い落ちて川面を彩っている。曲がりくねった小川の水深は浅く、流れる水は透き通り川底まで眺める事が出来た。余程昔からあるものなのか、朱塗りで半円形に中央が高く反っている橋はどこか神橋を思わせる。橋板は木材を何の装飾も無く並べたシンプルな造りになっていたが、欄干部分は中国風の橋を思わせる、随分趣のある古風な造りになっていた。
橋が架かっているくらいだから昔はここを通る人も多かったのかもしれないが、橋や道が狭い為か、区画整理や道路整備が進むうちに里の目立たない場所に押しやられてしまったのか、人通りは無いに等しい。まるで秘密の隠れ家に案内して貰った子供のような気分になって、ナルトは口元を綻ばせた。
「すげえな、こんなとこあったんだ。全然知らなかった」
足を止めたサスケの隣に立ち、古びた朱色の欄干に肘をつき身体を預ける。手を離されてしまった事はほんの少し寂しく感じたものの、今はそれよりも目の前の景色の美しさに目を奪われて、手すりから身を乗り出して川の流れに目を凝らした。
満開を過ぎた桜の木からは次々に花弁が舞い落ち、細く小さな川を覆い尽くさんばかりに川面を薄桃色に染め上げていた。
こういうの、なんて言うんだっけ。暫く考えて、ナルトの頭にサクラの言葉が蘇る。
花が散って、川に花びらが沢山落ちて流れていくのをね、花筏って言うの。花びらが、まるでいかだみたいでしょ。滅多に見られるものじゃないけど、桜の花びらが川にたくさん舞い落ちるのってすごく素敵なのよ。春になったら、どこか川の側に咲いてる桜の木を探してお花見しましょ。サスケくんと、カカシ先生と……そうね、サイも呼んで、新旧七班で。
「……はないかだ…、…すげえ、キレイだってばよ」
無意識のうちに、ぼつりと言葉が漏れる。
博学なサクラの話はナルトにとっていつも新鮮で、彼女が教えてくれる事は知らない事ばかりだった。強くなる為の修行でも、火影になる為の勉強でも知り得なかった、心が豊かになる知識を、彼女はいつも数多くナルトに与えてくれる。そんなサクラから教わった言葉は、勉強に励んで身に着けた知識よりも深く強くナルトの心に刻まれていた。
「意外だな。ドベの癖に、そんな言葉知ってたのか」
言葉の割りに優しい声音につられるようにして視線を声の主の方へ巡らせれば、サスケは穏やかに笑みを浮かべていた。滅多に見られないその表情に、ナルトの心臓はそれだけで早鐘を打ち始める。容姿端麗な補佐役に普段から見とれる事の多いナルトだったが、満開の桜を背にして立つサスケは、筆舌に尽くし難い程に絵になっていた。だから、いつもの調子で語られる憎まれ口にもすぐに反論する事が出来無かったのだ。
息をのんで固まったまま動かないナルトをどう思ったのか、サスケの薄く形の良い唇が緩やかに弧を描く。その次の瞬間には、ふわりと軽やかに跳躍したサスケは欄干を乗り越え、薄桃色の花弁が彩る川面に降り立っていた。
「……サスケ、」
サスケの一挙手一投足がナルトの目を奪い、引きつける。風になびく艶やかな黒髪が、均整のとれた体が、しなやかに動く四肢が、まるで生きた芸術品のようだと言えば、照れ屋な恋人は確実に機嫌を悪くするだろう。うちはサスケという存在はナルトにとって、否、おそらくナルト以外の人間にとっても、称賛を惜しみなく注ぎたい程瞳に眩しく映り、それでいて言葉を失うくらい美しかった。
「何をそんなに間抜け面してる。忍なら、水の上も歩けるだろ。……それとも、火影様は、道以外の場所も歩ける事を忘れちまったのか?」
周りの景色やその中に溶け込んで馴染んでしまうサスケの様子に気をとられるあまり、恋人の名前を呼んだきりすぐには言葉を紡げなくなってしまったナルトを嘲笑うかのように声に揶揄の色を滲ませたサスケは、皮肉っぽく呟くなり、右足で掬いあげた川の水をナルトの方へ向かって蹴り上げた。
橋は大きく無く、また弓状型の反り橋とはいってもあまり高さも無かった為、ナルトとサスケにさほど距離は無い。サスケが蹴り上げた水は軽々とナルトまで届き、少量とはいえどまだ冷たい川の水が顔や髪にかかった。
「わっぷ……、……な、なにすんだよ!」
「てめえがぼーっとしてるからだ。それくらい避けられなくてどうする、里長の自覚を持て」
「んなこと言ったって…。…それに俺は、火影の前にうずまきナルトだっての」
「それなら、らしくもなくぐちぐち悩んでねえでやりたいようにやれ。どうしたらいいのか解らなければ、誰かを頼ればいい」
言い合いを重ねるうちに、つい先刻までからかいの色が浮かんでいた漆黒の双眸は、いつの間にか射抜くような真剣さで真っ直ぐにナルトを見つめていた。低い声で告げられる言葉は、心配と叱責と怒りと、さまざまな感情がない交ぜになってナルトの胸を打つ。その瞬間、何故忙しいさなかにサスケがナルトを外へ連れ出したのか解った気がして、目が覚めたような衝撃を受けた。
火影に就任してからというもの、護衛される事が当たり前になり、整った道を歩く事ばかりになっていた。頬に擦り傷を作りながらなりふり構わずに茨道を駆け抜けた子供の頃の気持ちや、がむしゃらな熱い思いを抱く回数も随分減ったような気がする。
自分では、火影を目指すと豪語していたあの頃のうずまきナルトの心を持ち続けているつもりだった。しかし周りや環境の変化に流され、積み重ねて来た経験から学んで形成さえた自分は、良くも悪くも子供のままのうずまきナルトではいられない。
それでも、大人になるという事と、凝り固まった考え方しか出来ないという事は別の話だ。ナルトは口元に笑みを浮かべると、欄干に右手をつき羽織を翻らせてサスケの隣へと降り立った。
「……そうだな。意地張って一人で悩んでたって、いい考えが浮かぶわけじゃねえもんな」
特に意識しなくとも、水の上に立つという認識だけで足の裏に自然とチャクラが集まる。チャクラ吸着の修行の際、散々水の中に落ちまくったあの頃の記憶が遠い昔に思えると同時に、当時の事を思い出せばどうしても胸に蘇る師の存在に切なく胸が締め付けられる。火影の羽織を着た姿を見て貰いたかったと、就任してから数年が経った今でも思ってしまう。勿論墓前に報告へは行ったものの、そこに眠る遺骸は無いのだ。今でも不意に、ふらりと帰って来るような気がしてならない時があった。
ナルト、と不意に名を呼ばれ川面に落としていた視線を上げる。手を伸ばせばすぐに抱き締められる距離に立つサスケは、いつになく真剣な、それでいて切羽詰まった表情を浮かべていた。つられてナルトの顔からも笑みが消える。
火影に就任してからというもの、職務中は特に、ナルトでもウスラトンカチでも無く火影様と呼ばれる事が多くなった。それがサスケなりに揶揄と敬意を込めての事だと解っていても、寂しい気持ちになってしまう時がある事は否めない。
「つまんねえ男になるなよ。意外性ナンバーワンの称号が泣くぞ」
視線が重なってから僅かな沈黙の後、静かに紡がれた言葉の予想外さに一瞬瞠目する。そして、じわじわと込み上げる幸福感に逆らえずナルトは碧眼を細め、思わず小さく笑い声を上げた。
「泣くのは火影の称号じゃねえのかよ」
夢を叶え、名誉と同時に責任を背負った今のナルトは、本来ならば一個人としての権利や思想云々の前に火影という名前が先に立つ。ナルトの双肩に里の未来がかかっているのだ、泣き言や弱音など許される筈も無い。そんな事が解りきっているからこそ、木ノ葉隠れの里の長としてよりも、うずまきナルトという個人を想ってくれるサスケの言葉が嬉しかった。
「火影の称号ならとっくに泣いてる」
「おい、こら!なんてこと言うんだってばよ。俺、ちゃんと火影やってんだろ」
「どうだかな。数年後には、どこかの悪ガキに顔岩落書きされんのがオチなんじゃねえのか」
「そんな事されたら、俺だってバアちゃんの顔岩とかカカシ先生の顔岩にラクガキして、俺の方がすげえだろって威張ってやるってばよ。影分身使って、そんじゃそこらのガキなんてぐうの音も出ねえくらい徹底的にやってやる。……あ、モチロン、その後は自分で消すからご心配無く。昔からやらされてたから、コツ知ってるし」
「……別に止めはしないが、そうやってガキに尊敬されたところで、翌日には五代目に叩きのめされてるだろうがな」
「…………縁起でもねえこと言うなってばよ……」
「そのくらい、簡単に想像がつく。まあせいぜい、ガキと一緒に怒られればいいんじゃねえのか。そのうち里で有名になるぜ、反面教師の火影様、ってな」
年を重ねるにつれてナルトも随分口が上手くなったと自負しているものの、相変わらずサスケは減らず口だ。彼が里に戻って来てから喧嘩をして言い合いもした。ああ言えばこう言うの平行線の口論はサスケが大体一枚上手で、言葉に詰まって悔しい思いをした事は数えきれない。
憎まれ口を叩かれている筈なのに段々愉快になってきて、堪えきれなくなったナルトは声を上げて笑いだした。けなしている筈の相手の反応が意外だったらしいサスケが訝しむしように眉根を寄せているのが目に入ると、先程されたのと同じように、今度はナルトが右足で川の水を掬い上げサスケの方へ向かって蹴り上げる。お互いの距離など数歩程度しか無かった為、掬い上げた水のほとんどがサスケにかかって彼の身に纏う衣服を濡らした。
何しやがる、と告げたサスケと水の掛け合いになるまで、さほど時間はかからなかった。いい年をして何をしているのかという考えが全く頭を過ぎらなかった訳では無い。しかし、羽織や服が水分を含んで重くなり、春先のまだ冷たい水が髪や肌を濡らして体温を奪っても、目の前のサスケがやけに楽しそうにしているというただそれだけで、ナルトは幸福だった。
「火影様と補佐殿。二人揃って、何やってるんですか」
だからこそ、水のかけ合いにまるで子供のように夢中になるあまり、林の影から姿を現した人物に声をかけられるまで気づく事が出来無かったのだ。
聞き覚えのある、耳に心地良く可愛らしい声。それは決して怒っている訳では無く、逆に機嫌が良さそうだった。
里の中に詳しいと自負しているナルトですら知らなかったこの場所をどうやって突き止めたのか、緩やかな足取りで橋の中心まで歩を進めたサクラは、先程までナルトが立っていた場所で足を止める。そのまま欄干に両肘をついてもたれかかると、川面に立ちびしょ濡れになっている大の男二人に茶目っ気たっぷりの視線を送った。
「随分楽しそうじゃない。仕事してると思って執務室に行ったら、窓は開けっぱなし、部屋の鍵もかかってないのに見張りも留守番もいなくて、私、てっきり何かあったのかと思っちゃった」
川の方へ身を乗り出して笑むサクラの声は、落ち着いていて感情の高ぶりは感じられない。しかし、張り付いたような微笑みからは確かに威圧感が放たれていた。ナルトが何か言うよりも先に彼女が右手に持っていた紙束がくしゃりと握り潰される様子が瞳に映り、思わず息をのむ。言うまでも無く、怒っている。しかも相当だ。
「サスケくんがついていながら、いいえむしろ、サスケくんに何かあったからナルトが慌てて飛び出したんじゃないかとか色々考えてたら、偶然ヒナタに会って。白眼で探して貰って来てみれば、二人で水遊びしてるんだもの。心配して損しちゃった」
一貫して笑顔のまま紡ぎ出される言葉は、一切の抑揚が無い。
サクラがどうやってこの場所を探し当てたのかという疑問は解消したものの、ナルトも、そしてサスケも濡れ鼠のまま、川面に棒立ちになる他無かった。反論はおろか、言い訳すらも思いつかず、二の句が継げないどころか取り敢えずその場を取り繕う一言すら出て来ない。サスケの方を一瞥するも、彼はサクラからもナルトからも視線を外したまま無言を貫いていた。こういう時にサスケは全く役に立たない。事態の収拾を図ろうという気が無いに等しいのだ。
「……サ、……サクラちゃん」
それでも何とか場を持たせようと口を開くも、名前を呼び終わるか呼び終わらないかのうちに黒い影がナルトの眼前に迫る。僅かに視線を外せば、橋の手すりに凭れかかり身体を預けていた筈のサクラの姿はそこから消えていた。嫌な予感がして、思わず目を瞑る。ついでに口まで閉じてしまい、彼女へ向けた言葉のその先を紡ぐ事は出来無かった。
次の瞬間、視界を遮らんばかりの水柱が上がる。それは、比較的浅い川の底が空気に触れたのでは無いかと思う程に激しく巨大だった。突然の出来事に、その水柱が、降り立ったサクラが川面に振り下ろした拳によるものだと認識するまでに数秒を要した程だ。川面に浮かんでいた桜の花弁を含んだ水が多量に噴き上がり、迸る。飛び散った水と共に花びらも分散して、薄桃色の水の粒が辺り一面に降り注いだ。
「…………すげえ……」
反射的に閉じてしまった瞼は、身体中に受けた水の冷たさに促される形で次の瞬間には持ち上げていた。まるでショーのような光景を目の前にして、思わず感嘆の声が漏れる。
ナルトにとって怒らせたら誰よりも怖い女性を怒らせてしまった事を一瞬忘れてしまう程にそれは美しく、高く舞った水飛沫の最後の一粒が川面に落ち切るその瞬間まで目が離せなかった。どうやらそれは残りの二人も同じだったらしく、水柱を上げた当の本人のサクラまで偶然の産物である美しい風景に目を奪われている様子だった。
思わず溜め息が出そうなくらい幻想的な景色は、実際はほんの数秒間の出来事だったのだろう。しかし、水飛沫が舞う瞬間がまるでスローモーションのように瞳に映ったナルトにとっては、それよりももっと長い間桜の雨に魅せられていたような気がした。
「…………サクラちゃん」
手に持っていた書類の束は果たして濡らしても良いものだったのか、ナルトやサスケ同様すっかり濡れ鼠になったサクラは、ナルトがおそるおそる声を掛けるまでぼんやりと再び川面に戻った桜の花弁を見つめていた。名を呼べばはっとしたように僅かに肩を揺らし、すっかり毒気の抜けてしまったらしいサクラは普段と同じように相槌を打つ。怒っていないのかと質問を重ねれば、きょとんとした表情を浮かべた彼女は、一拍の沈黙の後に小さく吹き出した。
「だって、あんまり綺麗だったから。びっくりしちゃって、怒ってるのなんてどっかいっちゃった」
すっかり普段の調子に戻ったサクラは朗らかに笑い、水が滴る程濡れた書類を潔く丸めると思い切り振り被ってその紙屑をナルトに投げつけた。至近距離だった事もあって、水を含んだ紙の小さな塊は、放物線を描くまでも無くほぼ直線の動線で濡れた金髪にぶつかる。当たり前だが痛みは無かったものの、その紙屑が川に沈んでしまわないよう、ナルトは慌てて川面に落ちる前にそれを掴むとポケットに突っ込んだ。
「バカ。二人とも、心配したんだからね」
続けて耳に届いた言葉には、非難よりも安堵の色が多く含まれていて流石に罪悪感に苛まれる。素直に頭を下げて謝罪すれば、サスケも消え入りそうな小さな声で謝ったのが聞こえた。
先刻の発言といい、サスケも思うところあってナルトを連れ出したのだろうとは思う。しかしそんな言い訳はせず、謝罪の言葉を紡ぐところが潔い。多くを語らない性分は昔から、けれどそれなりに年を重ねたサスケは必要な言葉は伝えるようになった。特にサクラ相手には。
まだ十代だった頃と違い、サクラのサスケへの態度は随分変化したのだ。以前良く着ていた落ち着いた赤色の任務服よりも白衣を身に纏う回数が増えるにつれて、サスケに対してもナルト同様遠慮無くものを言うようになったサクラに、今では二人して頭が上がらない節がある。
「別にいいわよ、もう。……それより、どうしよう。私までびしょ濡れになっちゃった」
サスケの素直な謝罪など滅多に聞けるものでは無い。可笑しくなって笑いを堪えていると、我に返ったらしいサクラは水分を含んで重さの増した白衣の先を摘んで溜め息を吐いた。白衣だけでは無い。桜の花びらに良く似て綺麗な薄桃色の髪の毛先からも、ぽたぽたと雫が滴っている。しかしどことなく楽しそうに見え、ナルトは湧き上がる嬉しさが顔に出るのを隠そうともせずに口を開いた。
「俺の風遁と、サスケの火遁でかわかすってのどう?」
「……ドライヤーってわけ?」
「そう!電気いらずのエコドライヤーだってばよ」
「……お断りだ」
「えー、なんでだよ!?いいじゃねえの!久しぶりにやろうぜ、風遁と火遁の合わせ技!」
「そんなに上手くいくか。サクラの白衣を焦がして殴られるのがオチだ」
サクラの感触が悪くなかった為気を良くして言葉を続けても、サスケにすげなく断られてしまえば実現はしない。名案だと思っていただけに食い下がるが、サスケの意見は変わらなかった。
性質変化の相性を知った時から胸に抱いていた想いは、戦場にサスケが飛び込んできてくれたあの時に叶えられた。しかし世界が平和になってからは、当たり前だが大規模な忍術を使用する機会など滅多に無い。その為、ナルトが夢見ていたサスケとの合わせ技はあの時の一度だけで、それ以降実現を見ていなかった。
正確に言えば、戦争が終わってからナルトが火影に就任するまでの間に一度だけ試そうとした事がある。サスケとナルトのツーマンセルで、戦争後珍しいSランク任務にあたっていた時の事だ。当時火影だったカカシに、無事帰還するよう注意を受けるくらいに危険な依頼内容ではあったものの、サスケと二人なら無敵だとナルトは本気でそう考えていたし、実際その通りだった。その通りだったからこそ、周りに甚大な被害を出しかねない事を考慮したサスケに制止される形で大技を出すのを止める事になったのだ。
大きな揉め事が無く、さしたる脅威も無く、世界が平和なのは喜ぶべき事だ。しかし結局、胸が燃えるように熱くなる感覚を味わう事が出来たのは、戦争中のあの瞬間の一度きりだったという事になる。
「……じゃあ、戻って着替えるしかないわね。新年度だから白衣新しいのおろしたのに、焦がされたら困るもの。……まあ、着替えの前にお風呂だけど」
サスケの言葉を受け、サクラは深く溜め息を吐くと白衣の裾を軽く絞った。雨ならまだしも、川の水を底まで被ってしまったのだ。細かい葉や枝が三人とも衣服に付着していて、とてもではないが乾かすだけでは済みそうにない。
「じゃ、皆で銭湯とか行く?」
「そんなの、アンタとサスケくんは楽しいでしょうけど、私は仲間はずれじゃない」
弾んだ声の提案を一蹴されるも、高揚した気分がおさまらずじゃあ混浴の、と言葉を続けようとすれば、混浴のよの辺りまで口にしたところで、恐ろしく鋭い眼力の眼差しに射抜かれ口を閉ざすしかなくなってしまった。視線だけでサスケに助けを求めるも、ふいと目を逸らされ躱されてしまう。
意外にもサクラからそれ以上の糾弾を受ける事は無く、再び小さく息を吐いた彼女はふと頭上を視線を巡らせた。三人が立っている辺りには丁度、橋のたもとに生えている桜の木の枝が広がっている。満開を過ぎた桜は、時折柔らかく吹く風に花弁を乗せてゆっくりと葉桜に移り変る準備をしていた。
つられるようにナルトとサスケも上向けば、花吹雪に感嘆の声が漏れる。薄桃色の花をつけた枝の隙間から覗く青空とのコントラストも相俟って、その光景は溜め息が出る程美しかった。きれいね、そうぽつりと呟いたサクラの言葉に、頷く事で同意する。本当にただ綺麗で、それ以外に言葉は思い浮かばなかった。
「……じゃあ、私行くから。たまには息抜きもいいけど、あんまり心配させないでよね。サスケくんも、ナルトのサボり癖なんか真似しちゃ駄目じゃない。お目付け役なんだから」
一体どれくらいの間そうやっていただろうか。暫し無言のまま風に舞う桜を眺めた後に、サクラはどこか吹っ切れたように告げて軽い足取りでその場を後にした。サスケから「気をつける」の一言を引き出す事を忘れない辺り、相変わらずしっかりしている。
「怒られちまったな」
その場に二人残されて、ずぶ濡れのままナルトは朗らかに笑った。楽しくて、幸せで、つい先程まで行き詰った思いを抱えて頭を悩ませていた事がまるで嘘のように感じられるくらい、清々しい気分だった。
悩みが解決した訳でも無く、何か有効な具体策が見つかった訳でも無いけれど、根拠の無い安堵と自信が胸に溢れて何でも出来そうな気分になる。そんな思いに満たされて初めて、火影に就任する前の自分がそういう形の無いものを原動力に努力していた事を思い出せた気がした。意地も、やる気も、根性も、気概が無ければ長持ちしない。そういう意味でも、道以外も歩ける事を忘れてしまったのかというサスケの言葉が胸に刺さった。
きっと大丈夫だ。この先もずっと。
火影としての務めはまだ始まったばかりで、これから進まねばならない道は未だ終わりなど見えそうに無い。しかしその長い道程の中で、弱気になったり壁にぶつかる事が例え何度あったとしても、乗り越えて行ける気がした。そう思えるくらい、叱咤激励してくれる心強い存在が傍に居てくれるのだ。
「怒られたって態度じゃねえな。それに、てめえのせいだろうが」
「そうだけど…、…って、いや、違う!サスケのせいだろ!?」
サクラを怒らせる原因を作るのは大抵自分であるという自覚があるだけにサスケの言葉に一瞬納得してしまいそうになったものの、今日に限って言えば、問答無用でナルトを執務室から連れ出したのはサスケの方だ。
「どっちでもいい。俺達も帰るぞ、昨日立てた予定が台無しだ」
「だから、サスケがムリヤリ連れてきたんだろ!?ちょ、ちょっと待てってばよ!」
濡れた黒髪の毛先から水滴を滴らせながら歩き出したサスケを慌てて追いかける。たっぷり水分を含んだ羽織が肩にずっしりとした重みを訴えて来ても、ナルトの心は晴れやかで身体は軽かった。執務室に籠って悩みの種の書状と向き合っているよりも、余程有意義な時間を過ごせた事に間違いは無かっただけに、数歩前を歩くサスケには感謝の念しか湧いて来ない。言葉で気遣いを見せる事が苦手なサスケの優しさに胸があたたかくなった。
林を抜けたところで跳躍して民家の屋根伝いに駆け出したサスケを追って、ナルトも地面を蹴り跳び上がる。その身体から飛沫が舞って、春の陽射しに照らされ柔らかい輝きを残した。